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2023.03.22 (Wed)

第390回 名曲喫茶で聴く《レニングラード》(上)

ライオン
▲1926(昭和元)年創業、渋谷の名曲喫茶「ライオン」(筆者撮影)

あたしは中央線・中野駅のすぐそばで生まれ育ったので、中学・高校・大学の10年間、中野駅北口にあった名曲喫茶「クラシック」に入り浸っていた。この店について述べ出すと終わらないので省くが、かつては、都内のあちこちに「名曲喫茶」があったものだ。多くは閉店したが、当時のまま営業をつづけている店もある。

そのひとつが、渋谷の名曲喫茶「ライオン」だ。創業は1926(昭和元)年だという。渋谷の百軒店、ラブホテル街に隣接する一角にある(中学高校のころは、このあたりはちょっと怖くて、気軽に歩けなかった)。
あたしは、大学生時代によく行ったが、いまでも、すぐそばの映画館キノハウス(ユーロスペースや、シネマヴェーラ渋谷)に行くと、その前後によく寄る。

店内には大量のLPレコードがあり、巨大な「帝都随一を誇る」「立体再生装置」から、一日中、音楽が流れている。「聴く」ことが目的の店なので、店内で会話はできない。客の全員が黙ってスピーカーに向かって座っている光景は、いまの若い方々には異様に映るだろうが、これが名曲喫茶の常態なのである。

この「ライオン」では、毎日、15時と19時に、店主お気に入りのレコードをかける「ライオン・コンサート」が開催されている。ジョスカンの《ロム・アルメ》とか、カラヤンの1955年ルツェルン音楽祭ライヴとか、マニア泣かせの選盤である。レコードをかけるだけとはいえ、キチンと日程・曲目・演奏者を印刷したプログラムが事前に配布されるので、「コンサート」のムード満点である。

その「ライオン・コンサート」、2月26日(日)は、「トスカニーニ アメリカ初演時のレニングラード」と題して、ショスタコーヴィチの交響曲第7番《レニングラード》(トスカニーニ指揮、NBC交響楽団/1942年放送ライヴ)がかかった。
あたしも行って、ひさびさに聴いたが、パチパチ針音のする古いモノラル音源ながら、巨大なスピーカーをビリビリ震わせて轟きわたる《レニングラード》は、凄絶な迫力である。この「アメリカ初演」(ラジオ放送)を、戦時中のアメリカ市民は、どう聴いただろう。トスカニーニの棒は荒れ狂う一歩直前だ。地響きさえ伝わってくる。もし一般のマンションだったら、苦情どころか、警察に通報されるであろう。落ち着いたピアノ曲もいいが、こういう楽しみも、名曲喫茶の醍醐味なのだ。

この、ショスタコーヴィチ作曲、交響曲第7番《レニングラード》は、1942年初演。彼の交響曲のなかでは、第5番に次ぐ有名人気作品だ。
この曲の誕生と現地初演の経緯は、音楽作家、ひのまどか氏によるノンフィクション『戦火のシンフォニー: レニングラード封鎖345日目の真実』(新潮社、2014年刊/リンクは文末に)に、詳しい(余談だが、不肖あたしの担当編集で、42年間の編集者生活のなかでも、特に思い出深い一書だった)。

第2次世界大戦で、ドイツ軍に包囲されたレニングラードは、すべてのライフラインを絶たれ、900日間にわたって極限の封鎖状況に置かれた。砲弾・爆撃の嵐、強奪、凍死、餓死、人肉食………地獄絵図が展開し、正式発表で63万人、実際には100万人以上の一般市民が命を失った。
この900日間を耐え抜き、ドイツ軍を退けたレニングラード市民の戦いを素材にした音楽が、ショスタコーヴィチの交響曲第7番である。初演は1942年3月に、当時の臨時首都クイビシェフでおこなわれたが、同年8月、包囲され餓死が続出するレニングラード市内で演奏しようとするひとたちがいて、凄絶な現地初演が実現する(上記・ひの本は、その過程を、現地取材で再現した労作である)。

この曲が西側社会に与えた衝撃は大きかった。特に、迫りくるドイツ軍の軍靴の響きと、これに抗う一般市民の哀しみを思わせる第1楽章は、およそ人類が聴いてきたあらゆる音楽のなかで、これほど激しい表現はあるまいとさえ思われる迫力だった。
ソ連政府は、この曲こそは「ファシズムに対する戦いと勝利の象徴である」と、世界中に発信した。初演から3か月後の6月には、ロンドンで国外初演され、これまた、たいへんな反響を巻き起こした。

この曲を、「世界を主導する民主主義国家」アメリカが見逃すはずはなかった。敵対国ドイツに対する最大の意思表示にもなる。
すぐに、壮絶なアメリカ初演の争奪戦が展開した。
その過程を、週刊誌「TIME」1942年7月20日号が、「ショスタコーヴィチと銃」と題して、レポートしている。この記事は、「TIME」ウェブサイトが無料でネット公開しているので、主要部分を抄訳してみよう(全文リンクは文末に)。

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「TIME」1942年7月20日号の表紙(消防隊姿のショスタコーヴィチ)

今週の日曜日、NBC交響楽団の特別番組が放送される(東部標準時間:午後4時15分~6時)。
いま25歳のマルクス主義のミューズ(音楽の女神)、ショスタコーヴィチが、レニングラード郊外での塹壕掘りと、音楽院屋上での消防隊勤務の合間に書き上げた、もっとも野心的で巨大な第7交響曲が西半球で聴ける、最初のチャンスである。
1903年の《パルジファル》マンハッタン初演以来、ひとつの音楽に、これほどアメリカ中が期待を寄せたことはない。

※ショスタコーヴィチは1906年生まれなので、このころ35~36歳だったはず。「25歳」は誤記と思われる。

先月、アメリカに届いた5インチほどの小さなブリキ缶の中には、交響曲第7番の楽譜が、100フィートのマイクロ・フィルムにおさめられて入っていた。初演地クイビシェフからテヘランまでは飛行機で、そこからカイロまでは自動車で、さらにニューヨークまでは飛行機で、運ばれてきたものだ。専門家たちは、そのフィルムをプリントする作業に取りかかった。10日間で4冊、252頁もの大型スコアが出現した。


この当時、戦火のソ連からアメリカまで、(ドイツにとっては面白くない)マイクロ・フィルムを安全に運ぶのはたいへんなことだった。実は、この過程も、まるで「スパイ大作戦」のような興趣あふれるエピソードが多く伝わっているのだが、ここでは省く。
問題は、このマイクロ・フィルムが届くまでに、アメリカ国内で展開していた、ある大乱戦(Battle Royal)である。

アメリカを代表する3人の指揮者が、栄光あるアメリカ初演の獲得をめぐってBattle Royalを繰り広げていた。銀髪のストコフスキー、クリーブランド管弦楽団のロジンスキー、ボストン交響楽団のクーセヴィツキーである。
誰もがクーセヴィツキーの勝利を確信していた。彼は交響曲第7番の楽譜を見てもいないのに、アメリカにおけるソ連音楽の代理店「the Am-Rus Music Corp.」に掛け合って、いちはやく西半球での初演権を獲得していたのだ。そして、8月14日にバークシャー・ミュージック・センターの学生オーケストラが初演すると発表した。


ところが、そうは問屋が卸さなかった。
事態は、おどろくべき方向に展開していたのである。
(この項、つづく)

◇名曲喫茶「ライオン」は、こちら

◇『戦火のシンフォニー レニングラード封鎖345日目の真実』(ひのまどか/新潮社)電子書籍版は、こちら。中古本であれば、Amazonなどでも入手容易です。

◇「TIME」1942年7月20日号「Music: Shostakovich & the Guns」原文記事全文は、こちら

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