2023.03.30 (Thu)
第392回 76年ぶりに再演、早世の劇作家・加藤道夫が「いま」に伝えるもの

▲文学座アトリエの会『挿話〔エピソオド〕~A Tropical Fantasy~』(リンクは文末に)
劇団四季のファンならば、『思い出を売る男』をご存じだろう。
また、歌舞伎ファンだったら、『なよたけ』をご覧になっているかもしれない。竹取物語を原案とした芝居で、先代市川團十郎や、当代中村芝翫らも、若いころに演じている。坂東玉三郎演出の公演もあった。市川雷蔵が映画化を切望していた作品でもあった。
これらを書いた劇作家が、加藤道夫(1918~1953)だ。
戦前から芥川比呂志らと演劇グループを結成し、戦後、文学座に合流。夫人は、女優の加藤治子(1922~2015)である。
だが、戦争中に陸軍省の通訳官として南方に赴任し、重いマラリアに罹患する。戦後も再発し、闘病と入院を繰り返しながらの演劇活動だった。
そのため厭世的になったのか、昭和28(1953)年に自殺。35歳の若さだった。
そんな加藤道夫が、終戦後間もない昭和23(1948)年に発表した戯曲が『挿話〔エピソオド〕 A Tropical Fantasy』だ。翌年に、文学座が初演した。
だが、以後、この作品は一度も上演されることなく、一般の演劇ファンにとって加藤道夫はほぼ『思い出を売る男』『なよたけ』のみで知られる作家となって今日に至っている。
その『挿話』が「76年」ぶりに、文学座アトリエの会によって再演された(的早孝起演出/3月14~26日、文学座アトリエにて)。
なぜ、いまの時期に再演されたのだろうか。
時は「一九四五年八月二十日と推定される日」、所は「南海の果のヤペロ島と称するパプア族の住む島」
この島に残っていた、日本兵たちの物語である。
冒頭、日本軍の通訳・守山(作者の分身)の「声」がスピーカーから響く。
声(守山)「之は実際にあつたことであります。作者が実際に経験した事実の記憶から作り上げられたものであります。/それは昔々と言ふにはあまりにも真新しい記憶。――丁度、今から八年前。あの長かつた太平洋戦争が突如終焉した日のことであります。」
「これは、今次戦争の終戦が齎〔もたら〕した、ほんの小さなエピソオドであります。」
島に取り残されていた日本兵らは、米軍の伝単(宣伝謀略ビラ)で、終戦を知る。最初は本気にしない師団長だったが、先住民たちがお祭りをはじめたのを知り、敗戦の事実を受け入れる。
だが師団長は、新たな恐怖に襲われる。彼は、かつて、この島に上陸するや、先住民たちを自慢の日本刀で斬殺していたのだ。
やがて師団長は、彼らが生きていて、復讐に来るとの幻惑にとりつかれる。実際、先住民たちが亡霊となって師団長の前にあらわれる。だが復讐に来たわけでもなさそうで、なにかを訴えているようでもある。師団長は次第に衰弱し、錯乱状態に陥っていく。
終幕近く。彼方から、先住民たちの祭りの歌が聴こえてくる。
倉田(師団長)「……何の歌ぢや? あれは……」
守山「あれは、土人達が死者の霊を祝福するトラモワの祭りの歌であります。彼等は、ミタロと言ふ木彫の像を立てゝ、その廻りを踊り狂ってゐるのです。」(略)
倉田「(うはごとの様に)……む。さうぢや。……儂は行かにやならん。(略)儂は、これまでに、一度として、奴等のところに行つてやつたことがなかつた。……一度として、奴等の村を訪れてやつたことがなかつた。」(略)
藤野「閣下! 未開の土人どもの邪教であります。文明人であられる閣下が、あの様なものに心を奪はれるとは……」
師団長は、うつろな状態のまま、先住民の村へ向かって舞台から去る。
ここで幕が下りていたら、この戯曲は、戦争犯罪の愚かさを、演劇ならではの象徴性をもって表現した、反戦劇の一種で終わっていただろう。占領軍の検閲を受けているとしたら、”優良作品”として歓迎されていたかもしれない。
ところが、このあと、ふたたび守山の「声」が流れる(今回の再演では、本人が舞台上に登場した)――半年後、オランダ軍が進駐してきて、我々は帰国できることになった。師団長と参謀長は戦犯として逮捕されたが、師団長は精神異常を理由に放免された。
しかし、
※ここで思い出されるのは、竹山道夫の小説『ビルマの竪琴』だ。ちょうどこの『挿話』発表直前に連載が終了し、単行本化されている。『挿話』は、加藤の実体験が素材だが、この小説も脳裏の片隅にあったかもしれない。声(守山)「彼は我々と共に復員船に乗ることをどうしても肯〔がえ〕んじませんでした。……閣下は、ミタロの神に取り憑かれてしまつたのであります。〈土〉の神が彼の全精神を占めてしまったのであります。(略)故国は彼の脳裏から全く消え去つてしまつたのであります」
そして、ほかの日本兵たちの“現況”が述べられる。戦犯の参謀長が異国の地で強制労働に従事しているらしきほかは、みんな、商売で成功したり、労働組合で闘争活動をやっていたりと、ふつうの戦後をおくっているという。
守山は、ヤペロ島に行って、もう一度先住民たちと会い、「倉田閣下の思ひ出話に時を過してみたい」と願う(「倉田本人に会いたい」とは、言わない)。
ここにきて、物語は、副題にある“ファンタジー”であることが明確になる。わたしたち観客は、2時間弱の“まぼろし”を見せられたのである。
おそらく初演当時は、つい「8年前」の物語だけに、リアルに受け取られただろうが、さすがに76年もたつと、どこか諧謔的というか、コミカルな空気さえ漂う。だが、それでこそ、作者が目指したものは、ようやく76年目にしてファンタジーとして“完成”したともいえるのである。
作者の分身である「声」は、こう締めくくる。
声「……私は、愚かなるが故に人間を憎むものではありません。……併し、愚かなる人間達が不知不識〔しらずしらず〕の裡に犯してしまふ恐ろしい〈過誤〉〔あやまち〕だけはどうしても憎まないでは居られないのです」
今回の『挿話』再演は、2021年秋に決まったという。「グレート・リセット~危機を抱きしめて~」のテーマで、文学座内で公募され、選ばれたらしい。コロナ禍の下、東京オリンピック・パラリンピックが開催された直後だ。
このような作品を復活させる文学座の“発掘力”には感心させられる。ところが、“死者の声”に耳をかたむけるファンタジーのはずが、現実をなぞることになってしまった。
2022年2月、ロシアがウクライナ侵攻を開始した。「知らず知らずのうちに犯してしまう恐ろしい過誤」がふたたび地球上を覆いはじめる、その恐怖を、あらためて感じさせてくれた、加藤道夫の『挿話』とは、そんな“未来を見越した芝居”だったと思う。
新劇の公演期間は短い。こうやって紹介したり、口コミが広がるころには、公演は終わっていることがほとんどだ。
諸権利の関係で容易でないことはわかっているが、できれば、動画配信でもいいから、もっと多くのひとに観てもらいたい作品だった。
〈敬称略〉
※本文中の『挿話』台本は、『加藤道夫全集』全一巻(昭和30/1955年9月、新潮社刊)より引用しました(漢字は新表記にあらためました)。また、本稿執筆に際して文学座文芸編集室にご協力いただきました。御礼申し上げます。
◇文学座『挿話』サイトは、こちら。