2023.05.07 (Sun)
第399回 【新刊紹介】「どこにも売っていない」CD294タイトルを紹介する、前代未聞のガイドブック

▲『リアル・ライヴ・サウンズ 世界のオーケストラ レア自主制作盤完全ガイド』(篠﨑博著、DU BOOKS刊)
※リンクは文末に。
いまや音楽は、「音盤」(CDなど)で聴くものではなくなりつつある。配信、ストリーミング、ダウンロードが主流となり、音盤を手に取る楽しみは、少なくなった。
これはクラシックも例外ではない。聖地「タワーレコード渋谷店」など、かつては7階すべてがクラシック売場だった。それがいまではジャズやクラブ音楽などに浸食されて半分弱ほどとなり、風前の灯である。
先日には、老舗専門誌「レコード芸術」が休刊するとのニュースも伝わった。
レーベル(レコード会社)も、続々と消滅した。PhilipsやEMIといった名門レーベルは、いまや存在しない。
こうなると困るのは世界各地のオーケストラだ。いままで音盤ですこしは副収入になったし、名刺代わりで名前をアピールできた。だが、レコード会社はもうないし、あってもクラシックには力を入れてくれない。売場もない。
古参のファンには、配信でベートーヴェンやマーラーを聴くことをよしとしないマニアも多い。
そこで昨今、オーケストラが独自に音盤をつくってリリースするようになった。
たとえば、いまはなきPhilipsで多くの名盤をリリースしてきたロイヤル・コンセルトヘボウは〈RCO Live〉レーベルを設立した。これはあたしも大ファンで、マリス・ヤンソンス指揮のマーラーなど、ずいぶん聴いたものだ。ジャケット・デザインも清冽だった。
ほかにもロンドン交響楽団の〈LSO Live〉、その名のとおり〈New York Philharmonic〉、イスラエル・フィルの〈helicon classics〉など、続々と登場した。ネット通販の時代になり、音盤を店頭以外で簡単に売ることができるようになった点も幸いした。
こういった音盤を、「自主制作盤」と呼ぶ。
そして、今回ご紹介する本、『リアル・ライヴ・サウンズ 世界のオーケストラ レア自主制作盤完全ガイド』(篠﨑博著、DU BOOKS刊)は、そういった世界各地のオーケストラがリリースしている「自主制作盤」のガイドブックなのだが、これが尋常な内容ではない。単なる「自主制作盤」ではなく、「レア自主制作盤」なのだ。
いったい「レア自主制作盤」とは、何なのか。
本書中から、典型的な「レア自主制作盤」の紹介文をあげよう。
中身は、クラウディオ・アバド指揮、ベルリン・フィルほかによる、バッハ《マタイ受難曲》(1997年ライヴ)である。
ドイツ銀行傘下のドイチェ・アセット・マネジメントが株主や投資信託購入者へのギフトとして配布した音盤だが、同じものがザルツブルク・イースター音楽祭のパトロンへのギフトや、ドイツの製薬会社シェーリングが株主や医師などのギフトとしても流通していた。ジャケットも全て同じで、企業ロゴのみ違っていた。これは、ムジコムがベルリン・フィルから音源を買い取り、多くの企業へ同一音源を提供していたことを示すものであるが、(略)
つまり、一般ファン向けではなく、スポンサーや関係者など特定顧客のために制作された音盤なのだ。ゆえに一般流通しておらず、ほぼどこにも売っていない音盤ばかりで、ゆえに「レア」なのだ。
本書は、そんな「どこにも売っていない」レア自主制作盤ばかりを紹介する前代未聞のガイドブックである。
しかし、「どこにも売っていない」ものを紹介されたって、聴くどころか、目にすることもできないわけで(だから「前代未聞」なのだが)、そんなガイドブックが面白いのか、何の役に立つのか、疑問に思う方も多いだろう。
これが、とんでもなく、すさまじく面白いのだ。なぜなら本書は、音盤ガイドの体裁をとりながら、世界のクラシック・オーケストラや指揮者たちの歴史と現状を検証・紹介し、結果として戦後の世界クラシック界を俯瞰する、貴重な記録集になっているのである。
登場する国・地域は、「ドイツ」「オーストリア」「スイス」「オランダ」「イタリア」「その他欧州/中東」「アメリカ/カナダ」「オーストラリア/ロシア/アジア諸国」の8章構成。
オーケストラ総数は、なんと「102」団体(日本も13団体ある)。
とりあげられた音盤は294タイトル(すべてジャケット画像つき)。
本文部分780頁超のボリュームである。
なかでも多いのはやはりドイツで、最多の44団体が登場する。
ベルリン・フィルやバイエルン放送響などといった有名どころはいうまでもなく、「ブラウンシュヴァイク州立管弦楽団」なんて団体が登場する。あたしが知らなかっただけかもしれないが、1587年創設で、世界最古のオーケストラの一つだという。
紹介される音盤はヨナス・アルバー指揮のシューマン交響曲全集である。はじめて聞くこの指揮者は1969年生まれで、29歳で《ニーベルングの指環》を上演して大反響を巻き起こしたという。こういった解説も、微に入り細にわたっている。
ドイツの地方オケとは思えないほど、音色は明るく、しかもアンサンブルは精妙に整えられている。(略)いずれの作品でもオーケストラの鄙びた音色が郷愁を誘う。こうした音色が失われないことを切に願うばかりだ。
そのほかドイツでは「ワイマール・フランツ・リスト音楽大学管弦楽団」「デトモルト音楽大学管弦楽団」といった大学オーケストラの音盤も登場する。
「シカゴ交響楽団」が、ショルティ指揮でニールセンの交響曲第1番を出しているのには、驚いてしまった。
カナダの「ウィニペグ交響楽団」の音盤は、1959年ライヴの歴史的録音。若きグレン・グールドが弾く、ブラームスのピアノ協奏曲第1番だ。著者は、この項のタイトルを〈ロマンティストのグールドが異端児へ転身するドキュメントを聴く〉と題している。
(略)それほどこの演奏はピアノと激しく格闘し、オーケストラの奏でる雄大な音楽と対峙しようと、もがき苦しんでいる。そして、その結果は無残である。(略)恐らく、この演奏を通してグールドは、その繊細な精神を大きく傷つけられたのではないか。それが後年のバーンスタインとの演奏(富樫注:1962年)で聴かせる、スロー・テンポで抒情性に富んだ尋常ならざる演奏へ繋がったのではないか。ウィニペグでのコンサートが、グールドの大きな転機となったように思えてならない。
このように、紹介される音盤は、すべてが名演というわけではない。
たとえば旧ソ連出身のユーリ・シモノフ指揮、スロヴェニア・フィルハーモニーによる、ベートーヴェンの《田園》だが(1994年ライヴ)、これがあまりに緩く遅いテンポの演奏で、著者は〈高揚感がほとんど感じられず、ひたすら音が拡散していくだけの「田園」。緩さの極致を示す「田園」〉と容赦ない。
しかし、そのあとで、こう結んでいる。
シモノフがここまでして描きたかったものは何なのか。もちろんベートーヴェンが感じた田園風景であるわけはない。恐らくシモノフの生まれ故郷であるロシアのサラトフの広大な光景を描き出そうとしたのではないか。しかもサラトフの地名は「黄色い山」、すなわち砂山に由来する。広大な砂地によって作られた変化に乏しい故郷の風景。緩い音楽が延々と続くのもやむを得ない。
実は本書の魅力は、こういう書きぶりにもある。この著者は、どんな音盤であろうと、どこかに存在価値や貴重性を見出し、愛情をもって紹介してくれるのだ。
だから、読んでいて、とても気持ちがいい。音盤を貶めるような記述は、一切ない。マニア特有の〈俺は知っているぞ〉的なタッチもない。〈世界のオーケストラ戦後史〉を自然と学んだような気になる。
そして、世界には、こんなにたくさんの、無名ながら実力のある指揮者とオーケストラがあり、どこも自主制作盤をつくってがんばっていることを知らされ、そのこと自体にも感動をおぼえる。
いったいこの著者は何者なのか。
略歴によると、1961年生まれの音盤蒐集家で、大学卒業後、外資系製薬会社に勤務しながら音楽を愛好、音盤を蒐集しつづけたという。あたしと、ほぼ同世代だ。いまは定年退職し、〈音盤聴き放題の悠々自適生活に突入〉しているらしい。次回作が楽しみだ。
本書の版元「DU BOOKS」とは、中古CDの買い取り・販売大手「ディスク・ユニオン」のレーベルである(いま、もっとも面白い音楽本を続々出している版元)。なぜ本書がそこから出たのかは、エピローグに記されている。あたしも、長く編集の仕事をやってきたが、なるほど、こういうことから生まれる本もあるのかと、これまた感動してしまった。
しかし、この著者は、これら大量の「売っていない音盤」をどうやって入手しつづけたのか、あまり詳しく記していない。読み落としているのかもしれないが(なにしろ大部なので!)、その苦労話にも、面白いエピソードがあるのではないか。
なお余談だが、本書の「レア自主制作盤」のなかには、中古市場に出回っている音盤もある。
たとえば先に紹介した、アバドの《マタイ受難曲》などは、本書で〈これほどの演奏がソニー・クラシカルやドイツ・グラモフォンからリリースされないことに、クラシック音楽界の抱える大きな問題が垣間見える〉とまで書かれた名盤だけあって、一時期、ヤフオクやアマゾン中古などで、よく見かけたのを覚えている。
ただし、状態がよい音盤には「20,000円」前後の値が付いていたと思う。
さすがは「レア自主制作盤」である。
◆『リアル・ライヴ・サウンズ 世界のオーケストラ レア自主制作盤完全ガイド』(篠﨑博著、DU BOOKS刊)は、こちら(目次や一部立ち読みもあり)。
※本稿は「本が好き!」にも投稿しています。