2023.06.07 (Wed)
第404回 【承前】近松〈俊寛〉は、なぜ消えて、なぜ復活したのか(前編)

▲近松門左衛門『平家女護島』二段目「鬼界が島の段」西光亭芝國・春好齋北洲
(出典:WikimediaCommons)
前回、「俊寛が生きていた」との面白い文楽作品(浄瑠璃)『姫小松子日の遊』三段目「俊寛島物語の段」を紹介した。「江戸時代は、オリジナルの近松門左衛門版よりも、こちらのほうが人気があった」とも。
すると、数人の方から「そんなに面白い作品が、なぜ消えて、近松ばかりになったのか」と訊かれた。
実は、前回、それも書きかけたものの、あまりに長くなるので、省いてしまったのでした。しかし、複数の方からおなじ質問をされたので、やはり書いておくことにする。ただ、あたしは単なる道楽者で、研究者ではないので、過誤があればご容赦ください。
*****
近松門左衛門、67歳時の人形浄瑠璃『平家女護嶋』〔へいけ/にょご/の/しま〕は、全五段構成(現代ではタイトル末尾は「島」が多い)。『平家物語』のなかの「足摺」や、「入道死去」などいくつかのエピソードをもとに改変された“打倒、平清盛”物語である。
牛若丸や、市川猿之助が昨年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で演じた怪僧・文覚も登場する。
二段目「鬼界が島の段」(いわゆる〈俊寛〉)がもっとも有名だ。
ちなみにタイトルの「女護嶋」(女ばかりの島)が、俊寛が流された鬼界が島のことだと思われがちだが、それはちがう。
三段目「朱雀〔しゅしゃか〕御所の段」で、常盤御前が次々と男を誘惑し、屋敷に拉致する場面「朱雀の御前は女護の嶋。むかしは源氏の春の園。今日は平家の秋の庭」から来ている。
実は常盤御前は、ワーグナーの《ワルキューレ》みたいに、平家打倒のための兵士を集めていたのである。
これは、夜な夜な美男子が誘惑拉致されていた「千姫御殿」伝説のパロディだ(山本富士子や京マチ子、美空ひばりなどで何度も映画化された)。
常盤御前ばかりではない。清盛に側室になれと迫られる東屋(俊寛女房)は自害する。
また、俊寛の身代わりのようにして鬼界が島を脱出した海女・千鳥は、後段で、清盛が海へ突き落した後白河法皇を救出する。怒った清盛は千鳥を殺す。
そして最後は、この2人の女(東屋、千鳥)が怨霊となって、清盛を呪い殺すのである。
要するに、この作品は平清盛を追いつめる女たちの話なのだ。
よってタイトルの『平家女護嶋』には、「女」たちが力をあわせて平清盛を抹殺するプロジェクト名のようなニュアンスがある。
ということは、二段目(俊寛)だけを観て感動するのは、木を見て森を見ないようなもので、近松先生も不本意なのではあるまいか。
初演は1719(享保4)年8月、大坂竹本座にて。
だが、全段通しで上演されたのは、このときだけ。次の再演は52年後の1772(明和9)年だった(下記・倉田本より)。その間は、前回ご紹介した『姫小松子日の遊』のような改変物が人気を独占していた。
では、なぜ近松版は消えてしまったのか。
実は、いまでこそ近松門左衛門は“日本のシェイクスピア”などと称されているが、江戸時代当時は「近松の作品は一度上演されただけで、二度、三度と繰り返して上演されたものは、ほとんどない」「作品の大半は一回限りの上演で終わっており、一部の作品のみ数十年を経てようやく復活の兆しが出てくる」、そんな存在だった(倉田喜弘『文楽の歴史』より、2013年、岩波現代文庫)。
なぜか。倉田本では「(近松の)作品のねらいは(略)いわゆる虚実皮膜の間に慰みを見出そうとする点にあった。とはいえ、人形は一人遣いで三味線の技術も未熟な時代、近松の考えはどこまで実現できただろうか」と記されている。
つまり、近松の時代、人形は一人遣いで、いまのような精妙な動きはできなかったらしいのだ。

▲近松門左衛門『曽根崎心中』上演風景。たしかに人形は一人遣いだ。(出典:WikimediaCommons)
人形が三人遣いになったのは、1734(享保19)年、竹本座初演の『芦屋道満大内鑑』からだと、どの本にも書かれている(倉田喜弘氏はこれに異を唱え、1800年ころだとして実に面白い“論争”になったのだが、紙幅でカット)。
いずれにせよ、近松門左衛門は1725(享保9)年に亡くなっているので、人形が三人遣いになる前に世を去っているのである。再演されるのは、ほとんどが、三人遣いになってからの時代だ。
一人遣いでは、近松ならではの精妙な感情表現も難しかっただろう。作品の本質が見物に伝わらず、いくらいい狂言を出しても、すぐに忘れ去られた。
現に、演劇評論家・渡辺保氏の『近松物語 埋もれた時代物を読む』(2004年、新潮社)では近松の時代物狂言が20余、紹介されているが、このなかでいまでも知られているのはせいぜい1~2本である。
一人遣いで中途半端な近松作品よりも、荒唐無稽、波乱万丈な改変物のほうが面白いのは当然だったろう。おなじ〈俊寛〉だったら、近松よりも『姫小松』のほうが、はるかに楽しかったはずだ。
*****
ところが、その現象が逆転する。
1930(昭和5)年1月、松竹は、大阪に四つ橋文楽座を開場した。
(当時の文楽は、現代の歌舞伎のように、松竹が経営していた)
その杮落とし興行の一演目が『平家女護嶋』二段目「鬼界が島の段」で、これが実に40年ぶりの復活上演であった。
いうまでもなくすでに三人遣いの時代だ。ついに近松が復活する日が来たのだ。
しかも、この四つ橋文楽座の開場は、文楽の歴史を語るうえで、革命的な出来事だったのである。
〈この項、つづく〉