2023.06.09 (Fri)
第405回 【承前】近松〈俊寛〉は、なぜ消えて、なぜ復活したのか(後編)

▲四つ橋文楽座(出典:WikimediaCommons)
1930(昭和5)年、松竹は、四つ橋文楽座の開場にあたり、「桟敷」を廃止し、初めて「椅子席」(850席)の近代的な文楽専門劇場にした。
また松竹はこのときから、長時間を要する通し上演をやめ、すべて「見取り」(面白い段だけの抜粋上演)に切り替えている。
毎週日曜午前には、中学生向けの文楽鑑賞教室も開始した。
昨年逝去された文楽研究者の内山美樹子さん(内田百閒のお孫さん)は、こう書いている。
「松竹が見取り方式に切りかえた主たる理由は、太夫・三味線の多くにビラのきく狂言を一段でも半段でも(場合によっては掛け合いのいい役でも)受け持たせることで、贔屓筋、いわゆる組見のお客に、まとめて切符を売ることをねらったものと考えられます」(岩波セミナーブックス「文楽・歌舞伎」1996年、岩波書店刊)
※ビラのきく狂言=一般受けする演目
※組見〔くみけん〕=贔屓筋の団体鑑賞
もちろん明治大正期にも見取りはあり、「文楽は長すぎる」との声もすでにあった。だが、それでもちゃんと通し上演もやっていた。
それが見取り専門興行になったことを、内山さんはこう衝いている。
「その原作が放棄され、本体も付属もない、見せ場、聴かせ場の切り売りに堕したのが昭和五年以後の松竹の上演方針であったのです。この興行方法は、組見のお客と、人形浄瑠璃を初めて観る近代人の新しい観客と、両方に当初は受け入れられたのでしょう。開場からしばらくは(略)記録的な大入りでした。しかし(略)文化遺産を食いつぶす興行方針が、真の成功をおさめるはずはなく、再び不入りをかこつようになります」(前同書より)
もっとも不入りは満州事変の影響もあったようだ。
たが、これにより、物語の全容を知らずに一部だけを観て満足する新しいタイプの見物が続出した。
『平家女護嶋』でいえば、初段で俊寛女房に何があったのか、また、鬼界が島を脱出した海女・千鳥が、四段目でどんな活躍をするか——これらを知っているかいないかで、二段目「鬼界が島の段」の感動の度合いは、大きく変わるはずだ。
しかし、そんな松竹の方針転換のおかげで、『平家女護嶋』の二段目(俊寛)を、見取りで復活上演できたのだから皮肉な話である。
昭和5年、帝都は関東大震災から復興し、もう怨霊だの呪いだのの時代ではなくなった。
幸い『平家女護嶋』二段目はオカルト色がない。孤島に置き去りにされる俊寛の姿は、どこか近代日本人の姿に通じているようにも見える。
上演時間も約90分で、ちょうどいい。
文楽が見取り専門になるのだったら、今後、『平家女護嶋』はこの段だけやればいい。
『姫小松』三段目を見取りでやってもいいが、ラストで人形を同時に10体も出すのはたいへんだ。近松だったら6体ほどでいいし、ラストは俊寛1体だ。
……かくして、この昭和5年を境に〈俊寛〉ものは、近松版の見取りに代わった……ように、あたしは思うのだが。
*****

▲豊竹山城少掾(昭和5年当時は、豊竹古靭太夫)
話が遠回りになったが、このときの復活上演を実現させたのが、豊竹古靭太夫、のちの“昭和の名人”豊竹山城少掾(1878~1967)である。三味線は名コンビの四世鶴澤清六。
この上演が素晴らしかったので、近松〈俊寛〉が定着したであろうことは、想像に難くない。
古靭は「古きに環す」に徹し、むかしの院本(全段通し床本)を蒐集、研究していた。その中から近松〈俊寛〉を再発見し、先達を訪ねてむかしの語りを学び、40年ぶりに床にあげたのだった。
ところが、その40年前のときは『姫小松子日の遊』の、さらに改変物『立春姫小松』としての上演だった。正式な近松作品としての上演ではなかったのだ。それでさえ、これまた40年ぶりの上演だったという。
ということは、古靭による復活は、事実上、「80年」ぶりの上演だったのだ(三宅周太郎『続文楽の研究』より、2005年、岩波文庫/原本は1941年刊)。
上記『続文楽の研究』によると、古靭が先達から学んで復活した〈俊寛〉は、見事にむかしのスタイル通りだったという。それは80年前の再現でもあった(昭和5年の80年前とは嘉永年間、ペリーが来航したころである)。
古靭は「日月未だ地に落ちず」を痛感した。
著者・三宅周太郎は、上記本で「問題は実にこれである」と書いている。
「私は度々義太夫なり、人形なりが、日本の演劇方面においては、歌舞伎劇よりその伝統に信用が出来るといって来た。(略)だが、一方歌舞伎劇を見ると悲しい事には歌舞伎には義太夫における『朱』のような、科学的根拠がない。(略)私が歌舞伎の演出法と伝統とに、常に疑いを持つのはこの理由によっている」
※「朱」=床本や三味線譜への書き込み
いまの太夫に古靭の〈俊寛〉が伝わっているのか、あたしは知らない。しかしとにかく、「文楽」が、興行面や見物の荒波にもまれ、改変、消滅、復活を繰り返しながら生き残っていることには、まことに感嘆させられる。
そして「江戸時代のひとも、これとおなじものを観て、おなじ感動を得ていたのか」と思うと、胸が震える。
これが、文楽の魅力だと思う。
【関連回】
□第403回 俊寛は生きていた! まぼろしの文楽、復曲上演
□第404回 【承前】近松〈俊寛〉は、なぜ消えて、なぜ復活したのか(前編)
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