2023.06.20 (Tue)
第407回 朝ドラ『らんまん』が10倍おもしろくなる、コンパクトな2冊の本 【後編】

▲『牧野植物図鑑の謎 在野の天才と知られざる競争相手』(俵浩三著、ちくま文庫) ※リンクは文末に
(前編は、こちら)
さて、もう1冊は、「謎解き本」である。書名からして『牧野植物図鑑の謎 在野の天才と知られざる競争相手』(俵浩三著、ちくま文庫)という。まさにいま、ドラマはこの「図鑑」にまつわるエピソード編に突入しているので、ドンピシャの“副読本”である。
先月(2023年5月)の新刊だが、親本は1999年刊の平凡社新書。著者がすでに逝去しており、特に改訂や増補はされていない(植物学者・大場秀章による解説は新規)。著者・俵浩三氏(1930~2020)は、厚生省国立公園部や北海道林務部などに勤務した、林学者である。
これは、まさに凡百のミステリもかなわないおもしろさで、以前に新書で読んだときは、まさに巻を措くあたわず、あっという間に読了した記憶がある。その後、絶版になっていたようだが、こうやって文庫で復活して、まことにうれしい。一刻もはやく、多くの方々に読んでいただきたい。
牧野富太郎といえば、『日本植物図鑑』である。独力で、あらゆる植物を採集、分類、命名した成果をまとめた「図鑑」だ。この「図鑑」なるスタイルと名称も、牧野が日本で初めて生み出したものだと、あたしたちは教わってきた。
ところが著者は、あるとき、古書店で、似たような図鑑を発見する。村越三千男著『大植物図鑑』。奥付を見て驚いた。大正14(1925)年9月、「牧野図鑑」とほぼ同時に刊行されている。その後の増刷日も追いつ追われつ、この2つは競争するように並走していた。明らかにお互いを意識して〈出版競争〉を展開しているとしか思えない(「少年サンデー」と「少年マガジン」の創刊・販売合戦にそっくりだ)。
いったい、「牧野図鑑」に対抗するような植物図鑑を著した、この「村越三千男」とは、どこの誰なのか。興味をもって調べ始めた著者は(まさに、探偵なみの推察・調査力!)、4つの疑問を抱くようになる。
① 村越三千男とは何者で、なぜ「牧野図鑑」と「村越図鑑」は、同時期に出版されたのか?
② 「図鑑」は、ほんとうに牧野の発明なのか?
③ なぜ明治40(1907)年ころに、植物図鑑の大ブームが発生したのか?
④ なぜ牧野は自著図鑑に、〈インチキ本〉への苛烈な「警告」文を載せたのか?
これらを、実資料をまじえながら、ひとつずつ、見事に解明していく。その解明をいま書いたのでは興を削ぐので避けるが、一点だけ、明かしておこう。
「村越三千男」とは、明治5年生まれ、埼玉の旧制中学の、植物学と絵画の「教諭」であった。要するに学校の先生で、牧野同様、在野の植物学者だった。明治39(1906)年、村越は学校を辞し、東京に出て、自費出版で『普通植物図譜』を発行する。これは月1回発行の逐次刊行物で、いまでいうデアゴスティーニの「分冊百科」シリーズみたいなものであった。
村越は、このシリーズの「校訂」を、すでに名前の売れていた牧野富太郎に依頼する。
「植物界の泰斗牧野先生の校訂という呼声より暫次売行を増し、一時は毎月七千部以上の販路を有するに至ったことは、其の当時の書肆が驚異の目を見張ったものでありました」(村越)
かくして「牧野・村越」コンビは、その後も似たような図譜類を続々刊行し、売れに売れた。
ところが、やがてこの2人は離反していく。いったいなにがあったのか。どのような過程で、牧野単独の『日本植物図鑑』刊行に至ったのか。そして村越は、なぜそれに対抗するような植物図鑑を出したのか。
そのあたりは、実際にお読みいただきたい。上記④の、明治40年に植物図鑑ブームが発生した理由など、「へえ!」に尽きる。
とにかく牧野富太郎の超個性的な性格は、あまりにおもしろすぎる(正式に博士号を授与する1年前に、勝手に「博士」を名乗っていた)。ひとに迷惑をかけっぱなしの生涯で、偉人伝説が拡大されすぎたことも、著者はちゃんと指摘しているが、決して貶めるような書き方はされていない。
本書を読むのに、植物や理科の知識は必要ない。ほとんど、シャーロック・ホームズの名推理を聞かされる、ワトソンの気分になれる(ただし、出てくる本の書名が、ほとんど「〇〇植物図鑑」なので、読んでいてしばしば混乱する)。
朝ドラ『らんまん』は、本書を原作とした方がいいのではないか……とさえ、思った。
□『牧野植物図鑑の謎 ─在野の天才と知られざる競争相手』は、こちら。