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2016.05.11 (Wed)

第165回 映画『ちはやふる』

ちはやふる
▲映画『ちはやふる』前後編

 中学のころ、校内かるた大会があった。
 学年全員が体育館に集まり、一組6人くらいで大々的に開催された(あれだけの数のかるたを、どこから持ってきたのだろうか)。

 このときわたしは、初めて『百人一首』を知ったのだが、開催前、国語のM先生による解説授業を聞いて、不思議な印象を抱いたことを、いまでもはっきり覚えている。

 とにかく陰々滅々たる歌ばかりなのだ。

わたのはら八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ蛋の釣り舟 参議篁
(私はこれから島流しにあう。もう戻れないだろう。都の連中には、私は大海原を目指して漕ぎ出していったと伝えてくれ、釣り舟よ)

誰をかも知る人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに 藤原興風
(私は長く生きすぎた。友人にもすべて先立たれた。いったい誰を知人にすればいいのか。人間以上に長寿の高砂の松じゃあ、古い友人とはいえないし……)

あらざらむこの世のほかの思ひ出に今ひとたびの逢ふこともがな 和泉式部
(私はもうすぐこの世から去る。あの世へ旅立つにあたっての思い出に、せめてもう一度、あなたにお会いしたいものだ)

 こんな歌ばかりなのだ。
 どうも変に感じて図書室にあった解説本を眺めてみたが、『百人一首』とは、ほとんどが暗い歌なのだ。
 いわゆるお祝いの歌とか、恋の喜びを素直に綴った陽気な歌は、皆無だった。

 日本人は、昔から、正月のたびに、こんな陰気な歌を詠みながら、嬌声をあげてかるた遊びに興じていたらしい。
 考えてみれば、少々異常な遊戯とはいえないだろうか。

 しかし、頭でっかちな中学生だったので、それ以上、深いことは考えず、月日は流れた。
 大人になって、いくつかの本を読むうちに、『百人一首』の異様な成立理由、複雑な選歌基準などがわかるにつれ、わたしがかつて抱いた「不思議な印象」は、間違いでなかったことを知った。

 いまそれらを詳述する紙幅はないが、この百首は、藤原定家が、浄土宗の大物僧侶・蓮生法師の依頼で選定したものだった。
 (蓮生の娘と定家の息子は夫婦)
 では、蓮生は何のためにこんなセレクションを求めたのかというと、京都の自宅山荘・阿弥陀堂内の障子にこの百首を書き連ねさせたというのだ。
 (その山荘の近くに小倉山があったので、定家選を『小倉百人一首』と呼ぶ)

 つまり蓮生は、邸内に「歌による来迎図」をつくりあげたのだ。
 来迎図とは、死にあたって、極楽から天女たちがお迎えに来る様子を描く、「あの世への旅立ち」図である。
 『竹取物語』で、月からかぐや姫を迎えに来た、屈強軍団みたいなものだ。
 だから『百人一首』は、死への旅立ちのような内容の歌ばかりだったのだ。
 (以上は、主として、『百人一首の謎を解く』草野隆/新潮新書より)

 そんな『百人一首』を題材にした映画『ちはやふる』が大人気だというので、この種の映画はほとんど観ないわたしだったが、珍しく、前後編とも行ってみた。
 高校の競技かるた部が、全国大会を目指す話である。
 ついでに、原作コミックも、最初の数巻を、大急ぎで読んでみた。

 もちろん、「歌による来迎図」説に触れているわけないので、そんなことは微塵の期待も抱かずに行ったのだが、それにしても、あんまりな映画だと思った。
 このような映画が大流行するとは、日本人の知力の低下ぶりを如実にあらわしていると思った。
 こういうものを若い人たちがこぞって観に行き、これが映画なのだと思われては、たいへんまずいのである。

 これは「映画」ではない。
 これは、テレビドラマを、無理やり大画面に映しているだけである。
 だから、ほぼ全編、顔のアップばかりだ。
 味があって芝居のうまい役者ならいいいが、表情のない、セリフ回しもたどたどしい子供ばかりなので、観ていて、たいへんつらかった。

 以前、テレビドラマ史にその名を残す演出家、故・和田勉氏に、「なぜテレビドラマは、顔のアップばかりなのか」を聞いたことがある。
 こんな答えだった。
「日本のテレビドラマ草創期は、ロケはたいへんだったので、すべて、スタジオにセットを組んでの生放送だった。しかし、時間も予算もないから、安っぽい学芸会みたいなセットばかりだった。そうなると、あまりカメラを引いてセット全体を映すと、すぐにボロが出る。それをごまかすために、役者の顔をアップで撮るようになった。その伝統が、いまに至るまで脈々と生き続けているんです」

 次に、この映画は、物語の重要ポイントになると、ドラマツルギーで盛り上げるのではなく、怒鳴ったり叫んだり泣いたりし、あるいは決まってスローモーションになるのである。
 和田氏は、おおよそ、こんなことを言っていた。
「テレビドラマって、映画とちがって、茶の間で寝っ転がったり、酒を呑んだりしながら観る。つまり『集中しないで観る』ものなんです。だから、盛り上げるときは、頭を使わせないで視聴者を画面に惹きつけなきゃならない。それには、泣く、怒鳴る、叫ぶなどがいちばん簡単なんです。だけど、それに見合った顔の役者でなきゃダメですよ。それと、効果音と音楽ね」

 『竜馬がゆく』『阿修羅のごとく』『けものみち』『ザ・商社』『夜明け前』……和田氏のドラマは、どれも、役者の顔が立派だった。
 山崎努、片岡仁左衛門(先代)、加藤治子、佐分利信、夏目雅子……みんな、デカい顔で、ものすごい迫力だった。

 効果音や音楽もすごかった。
 『阿修羅のごとく』のメフテル(トルコ軍楽隊)、『ザ・商社』で常に流れる建築現場のようなハンマー音、『けものみち』のムソルグスキー《禿山の一夜》……いまでも忘れられない。

 ところが『ちはやふる』は、手法だけがテレビドラマで、役者の顔は貧相だし、印象的な効果音も音楽もないので、たいへん薄っぺらなものになってしまっている。

 また、この映画は前後編2部作だったが(今後、客の入りによっては、まだ続きがありそうだ)、前編の最後に、次回予告編が流れる。
 しかも、後編の前売券を買うと、何かがオマケに付いてくるような告知もあった。
 これなどは完全に連続テレビドラマの手法である。

 さらに、この映画は、「原作コミック」→「映画」の咀嚼作業が、ほとんど行われていない。
 原作コミックのにぎやかなドタバタを、いかに実写で再現するかに徹している(製作者には、そのつもりはなかったかもしれないが、結果として、そうなっている)。
 昨年の、やはりコミックを映画化した『海街ダイアリー』のほうが、まだ、ちゃんと「咀嚼」されて、原作コミックの延長線上にありながら、新しい味わいを出していたと思う。
 (どちらも、あまり芝居のうまくない、同じ娘さんが主役級を演じている)

 わたしは、『ちはやふる』は、原作コミックのほうを、はるかに楽しんだ。
 絵柄もかわいいし、主役たちが福井へ行って旧知の友人に会い、別れる線路沿いのシーンなど、コミックならではの表現で、とてもよかった。

 かくして、ひさびさに大手配給の人気邦画を観たのだが、大会社は、この程度のものばかりつくっているのだろうか。
 「歌による来迎図」説を知ってしまい、疑問を抱きながら競技かるたの世界で生きるヒロイン……そんな百人一首映画を観たいものだが、まあ、とうてい無理だろうなあ。
 (一部敬称略)

【追記】
 平安~鎌倉時代までの日本語は「濁点」は、表記しなかった。
 よって、「ちはやふる」と表記されていても、口に出して読むときは「ちはやぶる」と発音したいものである。
 ちなみに「ちはやぶる」は、「神代」の枕詞である。

千早ふる神代も聞かず竜田川からくれなゐに水くくるとは 藤原業平朝臣


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