2015.12.27 (Sun)
第137回 新刊 『イスラムと音楽』新井裕子(スタイルノート)

現在公開中の映画『禁じられた歌声』は、イスラム過激派組織が、アフリカ・マリ共和国の古都を制圧した事実がモデルになっている。
この映画の中で、過激派は、音楽、タバコ、サッカー、女性の肌の露出などを一切禁止する。室内でギターを弾いて歌っただけで、ムチ打ち40回の刑だ(未婚で同棲していた男女に至っては、首だけ出して地中に埋められ、投石で公開処刑される)。
いったい、イスラム教で「音楽」は、禁止されているのだろうか。
アッラーがムハンマドに「歌ってはならない」なんて啓示を与えたのだろうか。
だとしたら、コーランの、どこに、どんなふうに書かれているのだろうか。
そんな疑問に答えてくれる本が、絶妙のタイミングで出た。
新井裕子『イスラムと音楽 イスラムは音楽を忌諱しているのか』(スタイルノート)である。
イスラムと音楽の関係を、西洋音楽史もからめながら再検証する、コンパクトにして充実した解説書だ。
著者は、コーランやハディース(アッラーの啓示を受けたムハンマドの言行録)の中の「音楽」関係部分をていねいにピックアップし、一つずつ検証していく。
そして到達する結論は……
「以上のことを総合すると、神(アッラー)やムハンマド自身が、直接『音楽』を禁止していたとは考えにくい。『音楽』に対する忌諱は、したがって後の時代に形作られたものであると考えられる」(本文より)
そこで著者は、前近代~現代にかけて、イスラム世界のカリフ(指導者)や君主が、音楽をどう扱ってきたかを、時代を追って追跡検証していく。
その旅は、ミステリの犯人探しのようだが、浮かび上がってくるのは「歌手」「記譜者」の存在であり、中には「音楽セラピスト」までいた。
そして1932年には「第1回アラブ音楽会議」が開催され、記譜法や音階などをアラブ世界で統一させようとの試みが行なわれた(しかし、結局「統一」は不可能で、それだけアラブには多様な音楽世界が存在していることが再確認された)。
要するに、イスラム世界は「音楽」だらけなのだ。
映画の「音楽禁止」は、あまりに異常な事態であることがわかる。
しかし、キリスト教において音楽が典礼に欠かせないのに対し、イスラムでは、音楽は「娯楽」だという。
だから、あまり積極的に受け入れられない面も、あるようだ。
コーランの読誦が、あまりに美声で朗々と響くので、我々は「詩」を「メロディ」に乗せて「歌っている」のだと思ってしまう。
だがあれも厳密な「読誦規則」(タジュウィード)に従って「読んでいる」だけで、イスラム教では、典礼に音楽は必要としない。
ではなぜ、キリスト教では音楽が必要だったのか。
著者は、それを考えることの重要性を説いて、本書を終えている。
ぜひ次は、この問題に迫ってほしいと思った。
興趣あふれる話題もたくさん紹介されている。
たとえば……1800年代、オスマン朝のスルタンは、イタリアから軍楽隊指揮者ジュゼッペ・ドニゼッティを招聘した。
あのオペラの大作曲家ガエターノ・ドニゼッティの兄である。
そしてオスマンの音楽界に近代西洋音楽をもたらし、国歌を作曲し、28年間をイスタンブールで過ごし、彼の地に埋葬されたのだという。
リストはイスタンブールを訪れてスルタンに接見、ピアノ曲を献呈しているそうだが、これを取り次いだのも、このジュゼッペ・ドニゼッティだった。
この挿話など、一冊の本になりそうな予感がある。
この種の本は、研究紀要で発表された方がいいような論文調が多いのだが、本書は、論文と一般解説の中間を行くスタイルで、たいへん読みやすい。
イスラムを「音楽」の視点から眺める、最適の入門書だと思う。
◆「富樫鉄火のグル新」は、吹奏楽ウェブマガジン「BandPower」生まれです。第132回以前のバックナンバーは、こちら。
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