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2018.03.01 (Thu)

第193回 〈古本書評〉 後藤明生「マーラーの夜」

しんとく問答
▲「マーラーの夜」が収録された、『しんとく問答』(1995年、講談社刊)


 マーラーの交響曲のなかで、唯一、ナマ演奏で接したことがなかった、第7番(夜の歌)を、N響定期で聴いた(パーヴォ・ヤルヴィ指揮、2月11日、NHKホールにて)。これはとにかく分かりにくい曲で、若いころから何度となくフルスコアを眺め、いろんな音源を聴いてきたが、どうにも全体像がつめないまま、この歳になってしまった。それだけに、この機会を逃したら、もうチャンスはないかもしれないと思い、ええいままよ、と思い切って出かけてみた。
 そうしたら、プログラム(月刊「フィルハーモニー」)に、以下のようなヤルヴィの言葉が載っていた。
「私自身、当初《第7番》を分かりにくいと感じていました。しかし、風変わりで意外性に満ちたこの曲に整合性を求めることをやめ、音楽そのものに耳を傾けた途端、作品が自然と語りかけてくれるようになりました」(大橋マリ氏によるインタビュー記事より)
 そうか、N響の首席指揮者が「分からなくていい」といっているのだから、わたしごときが分からないのも当然なのだ。
 確かにヤルヴィの演奏は、「整合性を求めることをやめ」たような、ベルトコンベアに乗って目の前に流れて来た音符を、いじくることなく、次々と処理して製品にしていく、そんな指揮ぶりだったが、まあ、それでいいのではないかと思った。これが「どこかに整合性があるはずだ」と理想を摸索しながら指揮していたら、本来80分前後(CD1枚分)におさまるはずの本曲が、あのクレンペラーのような超スロー演奏(100分超=2枚組!)になり、悶え苦しみ、のたうちまわるような演奏になっていただろう。

 ところが、そんな「整合性を求めない」ヤルヴィのおかげで、15時開演の演奏会は、早々と16時20分にお開きとなった。N響の定期は、序曲+協奏曲~(休憩)~交響曲のパターンが多く、15時開演の日曜定期は、おおむね17時近くまでかかるものだが、なにしろ「整合性を求めない」1曲のみのプログラムだったので、いつもより早い時間に外に出る身となった。
 その日、わたしは、夜の用事があったのだが、中途半端な時間の空き具合となってしまった。仕方ないので、ときどき行くブックカフェで本でも読みながら時間をつぶすことにした。日本中の馬鹿者をすべて集めて全国大会をやっているような渋谷の雑踏のなかを、「どうか馬鹿が伝染しませんように」と、映画『遠すぎた橋』のロバート・レッドフォードのように祈りながら駆け抜け、さるビルに入る。すると、その店は「本日貸切」であった。この瞬間、脳裏に、ある短篇読み物が浮かんだ。
「まるで、後藤明生の『マーラーの夜』じゃないか」

 「マーラーの夜」は、「新潮」1992年1月号に発表され、単行本『しんとく問答』(1995年、講談社刊)に収録された。20頁強、エッセイとも小説ともつかない、不思議な掌篇である。
 当時、「私」(後藤明生自身)は、近畿大学で教鞭をとっており、大阪に単身赴任していた。マンション住まいで、月に2~3度、東京に帰る生活だった。
 あるとき、TVで、KBS交響楽団(韓国)の来日公演があり、曲がマーラーであることを知り、行く決意をする。「私」は、それほどのマニアではないが、マーラーの第1番が好きで、ショルティ指揮のカセットをデッキに入れっぱなしにしている(ここから、後藤明生お得意の「アミダクジ」的記述になり、自分とマーラーのかかわりが、マニアではないといいながら、実に詳しくつづられ、あらぬ方向に記述が進む)。
 そして、第3楽章に、歌詞をつけて歌うようになった。その「歌詞」とは、

 ダートー ベーイエイ(打倒米英)/ダートー ベーイエイ
 ハーレーター ソーラーニー(晴れた空に)
 ターカク ヒクーク(高く低く)/ユーメノ ヨーオーニ(夢のように)
 キン コン カーン/キン コン カーン


 というもので、確かにピッタリ合う(この旋律は、フランス民謡《フレール・シャック》=《グーチョキパーでなにつくろう》がもとになっている)。
 わたしの中学生時代、吹奏楽部でホルンを吹いていたK君は、ブラームスの交響曲第3番の第3楽章に「俺は~バ~カだ。お前も~バ~カだ。みんな~バ~カだ~、バ~カだ~……」とデカダンな歌詞をつけてよく歌っていたが、あれに匹敵する名歌詞だと思う(ちなみにK君は、いま、某有名大学でマーケティング論の教授となっている)。

 で、この短篇は、そんな他愛ないマーラー雑談で終わるのかと思いきや、あちこちに脱線しながら、ようやく話は戻って、いよいよ、演奏会当日になるのである。
 開演は19時、会場は大阪厚生年金会館大ホールだ。「私」は、どのような交通手段と経路を使うか、あれこれと思案する。プレイガイドの女性に訊ねたり、地図を広げたりして、たいへんな騒ぎだ。いくら長く住んでいないとはいえ、大都会の、それなりに有名な会場へ行くのに、なぜ、大のおとなが、こんなチマチマした騒ぎを冗舌に演じるのか理解に苦しむが、この作家は、原稿だけでなく、生き方までもが「アミダクジ」式だったことがわかり、微笑ましくなってくる。ここを面白く感じられないひとは、後藤明生を楽しむことはできない。
 やがて「アミダクジ」の選択肢は、さらに妙な方向に進み、会場の手前にあるレストランで、かつて、(芥川龍之介の)「『芋粥』の五位の某のように」、無性にエビフライが食べたくなったことがあり、入店したものの、肝心のエビフライが売り切れで、がっかりした経験を思い出す。
 そこで、今回こそは、あの店でエビフライを食べようと決意し、演奏会の前に、早めに出かけるのである。その時間配分を決定するまでが、これまた大騒ぎで、どこからどの地下鉄に乗って、レストランまで徒歩で何分、食事に1時間……などと、徹底的に考え抜き、ついに16時半にマンションを出る。
 その結果がどうなったか……は、わたしの渋谷での経験譚から、おおよそ想像がつくであろう。

 後藤明生(1932~99)は、早稲田大学の第二文学部露文科を卒業後、博報堂や平凡出版(現マガジンハウス)に勤務しながら、小説を書いた。芥川賞候補に4回挙げられたが、受賞には至らず。だが、平林たい子文学賞、谷崎潤一郎賞、芸術選奨文部大臣賞など錚々たる受賞歴を誇る、玄人好みの作家である。
 特に、あちこちに脱線しながら、失った外套を探す1日を描く『挟み撃ち』(1973)は、数社の文庫を小説同様に転々とし、1998年に講談社文芸文庫に入り、カタログ上は絶版ながら、まだ一部店頭で生きているロングセラーである。
 近年、後藤明生は人気再燃の傾向があり、最近も、怪作『壁の中』が、普及版と愛蔵版で復刊した(つかだま書房)。昨年には『後藤明生コレクション』全5巻(国書刊行会)が完結。「マーラーの夜」は、その第4巻に収録されている。ほかに電子書籍版もあり、冒頭部を試し読みできる。
(敬称略)

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