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2018.06.11 (Mon)

第199回 日本大学フェニックス

 1976年7月、新宿にあった東京厚生年金会館大ホールで開催された、日本大学吹奏楽研究会の定期演奏会には度肝を抜かれた。
 ステージ・マーチング・ショーに、日本大学フェニックス(アメリカンフットボール部)が賛助出演したのだ。「アメフトのハーフタイム・ショーに吹奏楽が登場」するのならわかるが、「吹奏楽のコンサートにアメフトが登場」したのである。
 ステージ上では、ガクラン姿の男子学生がズラリと直立し、ド派手な音楽を奏でている(当時、女子部員はパレードやマーチングには出演できなかった)。その前で、上手下手双方から、ヘルメットやショルダー・パッドなどで完全武装した選手たちが物凄いスピードで登場し、何やら不思議な動きを見せながら、中央でぶつかり合う。
 わたしはスポーツ音痴なので、あれをタックルというのかタッチダウンというのかトライというのか、何が何だかわからなかったが、とにかくフェニックスの巨大な男どもが、ステージ上に、次々とすごい音を立てながら走り込んできて、衝突し、ときにはひっくり返ったり、相手の上に乗って崩れたりするのだ(床が傷んだのではないか。ホール側が、よく許可したと思う)。
 要するに、コンサートのステージ上で、アメフトの模擬フォーメーションが展開したのである。
 あのころ、日大吹研のマーチング・ショーは大人気で、ただでさえ客席から歓声が絶えないのに、あの日の会場は、さらに異常な熱気に包まれていた。わたしも、いままでにずいぶんいろんなコンサートに行ったが、あんなものを観たのは、後にも先にもただ一度のことだ。

 当時、日本大学フェニックスは破竹の進撃を開始した時期で、監督は篠竹幹夫氏(1932~2006)だった。監督在任44年の間にフェニックスを17回、学生王座に導いた名監督である。
 作家・大下英治氏の著作に、『小説 日本大学』(1988年、角川書店刊)がある。「スポーツ・ニッポン」紙の長期連載をまとめた連作読み物だ。その中の《気迫以外に途なし――篠竹幹夫》の章に、こんな挿話がある。
 昭和61年、アメリカン・フットボール関東大学選手権の決勝戦で、日本大学フェニックスは、明治大学と対戦していた。フェニックスは、前年、17年ぶりに敗れ、王座を明治大学に奪われていた。
 同書によれば、試合前、篠竹監督は、こう言って選手にゲキを飛ばしたという。
「去年の恥辱を忘れるな。二年連続で明治に負けることは、許せない。負けたら、明日から全員大学をやめて、解散だ。おまえたち、死んでこい。明治を殺せ!」

 すでに知られているように、篠竹監督は、スパルタや鉄拳指導が当たり前の、おっかない鬼監督だった。
 ところが、このひとのすごいところは、人生をフェニックスのみに捧げたことだった。
 酒もやらず、独身を貫き、学生と一緒に寮に住み、一緒に風呂に入って麻雀をした(平気で学生からまきあげていたというが)。

 わたしは、後年、ある席で篠竹監督にお会いしたことがあるが、いただいた名刺を見て、びっくりした。金ピカの、なにやら金属みたいな特殊な用紙で、しかも自分の顔写真がデカデカと刷り込んである(いまでこそ、顔写真入りの名刺はあるが、まだ当時は珍しかった)。さらに、プ~ンと高雅な香りが漂ってくる。どうも、名刺に香水がふりかけてあるようだった。
「監督、なにやら、いい匂いがする名刺ですね」
 すると篠竹監督はニコニコ笑いながら、ダミ声で、
「フランスの○○香水をインクに混ぜて印刷したんだよ。特殊技術なんだ。この名刺のスポンサーだよ。(アメフトは)カネかかるから、少しでも広告料を集めないと」
 確かに名刺の裏には、その香水の宣伝が印刷されていた。「広告入りの名刺」なんて、生まれて初めて見た。面白いひとだなあと思った。世間でいう「鬼監督」とは、ちょっとちがう印象を抱いた。

 もちろん当時もいまも、篠竹監督を悪くいうひとは、いる。いま、フェニックスがあんなことになったのも、ルーツは篠竹体制にある、今回問題を起こした監督は、篠竹監督の直系であり、篠竹こそが諸悪の根源だ――と。
 先の大下著作によれば、昭和40年代の日大闘争(裏口入学発覚を契機に、20億円の使途不明金が判明)で、篠竹監督は大学側に立って、日大全共闘の学生たちと対立した。そのため、闘争終息後、フェニックス内で篠竹ボイコットの機運が一挙に高まった。
「部員は、グラウンドにくれば練習はした。が、監督である篠竹には、あいさつをしなかった。篠竹の指示も、一切無視した」「それどころか、合宿所では、部の規則で禁止となっている酒を、篠竹の目の前で飲んでみせた」
 篠竹監督は、感情を押し殺し、ひたすら耐えていたという。
 さらに、昭和47年には、体調を崩していた部員が夏の合宿で急死した。「ひと殺し!」「この野郎、涙も流さねえのか!」などと責め立てられた。このときも、篠竹は、じっと耐えた。ただひとり、関西でおこなわれた葬儀に出向き、後日、彼をしのぶ石碑を建て、関西に行くたびに、墓参りを重ねた。「なんとか、この退廃集団を、再建しなければならない。このままでは、死んでも死にきれない」
 ここから篠竹監督はひたすら部の立て直しに身を投じ、やがて黄金時代を迎える。冒頭に記した吹研の定演に出演していたのは、その時期のことである。

 どこで読んだか忘れたが、篠竹監督は、こんな主旨のこともいっていた。
「たかがスポーツだ。長い人生のうちには、もっとつらいことがいくらでもある」――だから、やるときは死にもの狂いでやって、終ったら忘れろ、といったような主旨だったと思う。
 先日、作家・曽野綾子さんが、「日大アメフットの悪質反則」と題して、似たことを綴っていたのを読んで驚いた(産経新聞、5月23日付)。
「自分の存在、やっている仕事をすべて『たかが』と思えるかどうかが大切なのだ」「私は一人の小説家としてはあくまで『たかが小説』に生涯を捧げる職業についていると思えばいいのだ。こちらは一生懸命だろうと、その影響は大してないのだ、と自覚することである」だから、あの試合も「その勝ち負けは、『たかが』といえたのだ」
 つまり「たかが」アマチュア・スポーツに、反則をしてでも相手をつぶせと指示するなど、いかがなものか――と、曽野さんは言いたかったのだと思う。
 いうまでもないが篠竹監督が「明治を殺せ!」と叫んだのは、「たかが」精神のうえでのことのはずだ。だが、今回辞任した監督やコーチにとっては、「たかが」ではなかったようだ。篠竹体制に、もし、悪い面があったとしたら、その表層部分だけを、あのひとたちは引き継いでしまったように思う(背後には、さらに深刻な組織的問題があるようだが、それを記すのは本稿の役目ではない)。

 曽野さんは、先の文中で、こうも書いている。「小説家が偉大な仕事をしているなどと思い始めたら、その瞬間からその人の文章は異臭を放つだろう」
 冒頭で紹介した、コンサートに登場したフェニックスの選手たちは、なんだか楽しそうに見えた。「いつも試合の応援で吹研にお世話になってるから、今日はお礼に来たぞ!」とでもいうような、明るい雰囲気があった。そこには、いい意味での「たかが」精神が満ち溢れていた。
 だが、あの監督やコーチたちには、それが感じられなかった。曽野さん流にいえば「異臭を放」っていた。それも、かなり強烈な。
<一部敬称略>

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